1949(昭和24)年12月、尾山神社前商店街はこつ然とその姿を現した。敗戦によって外地から引き揚げてきた人々のために、尾山神社の外苑であった地を借り受けて(のち買収)、木造2階建ての長屋4棟余を建設、約100軒の商店が営業を始めた。
神社側が飲食店街、上松原町側(国道側)が商店街。「ヨ」の字型に街路が作られた
(国土地理院地図・空中写真閲覧サービス 1952年11月11日)
開設当時は、尾山神社側に飲食店街が、上松原町側(百万石通り側)に物販の店舗が商店街を作った。大通りから一本入った路地は国道のバイパス機能を果たし、クルマや人の往来が盛んになった。
約100軒のうち飲食店が6割を占め、庶民的で親しみやすい雰囲気を醸す一方、夜は繁華街の活気に満ちあふれ、ネオン街として夜更けまでにぎわった。
開設当時の商店街。バラックの屋根が突如として現れ、商店街を形成していく
(『尾山神社誌』より転載)
庶民的な店が立ち並ぶ飲食店街
(金沢市商店街連盟『金沢商店街のあゆみ』より転載)
狭い路地に人やクルマがひしめき合う商店街通り
(金沢市商店街連盟『金沢商店街のあゆみ』より転載)
高度経済成長期、国道沿いの香林坊・南町界わいがビジネス街として発展したことに伴い、商店街の飲食店や喫茶店はランチを求めるサラリーマンでにぎわった。
隣接する金沢貯金局に出入りする人も多く、それに合わせて紳士服洋品店や靴店、衣料品店なども立ち並び、ボウリング場まであった。
長年の常連客に支えられ盛況を呈していたが、周辺に石川県文教会館が完成、中心市街地の再開発事業やビジネス街の高層ビル化が進むと、客層はさらに厚みを増した。
多業種の店舗が集積し、創業当時以来のスローガンである「何でもそろう横のデパート」として、ますます存在感を増しにぎわった。美化運動の一環として街路灯も刷新された。
サービス向上の一環として美化運動や街路灯の刷新などが行われた
(金沢市商店街連盟『商店の繁栄で拓く明日の金沢』より転載)
しかし、平成に入るとバブル崩壊後の不況を経て、
規制緩和の流れの中で大店立地法が改正、郊外型店舗の出店が加速していく─